« 馬場先生=前川佐美雄賞、 渡辺松男さん=迢空賞 | トップページ | 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 »

2012年4月 6日 (金)

武川先生、そして佐々木君

梅内さんに続いて、渡辺松男さん、馬場先生の受賞の知らせも入った。授賞式のことはもちろん、作品の鑑賞なども、あらためて書きたい。

おめでたいお知らせの一方、武川忠一先生の訃報が入った。
早稲田大学の武川先生の授業を履修することはできなかったが、大学3年ころから入った「短歌研究会」の顧問としてお世話になった。岩田先生、馬場先生と「まひる野」時代からの仲間でありライバルであると知ったのはずっと後のこと。論客としてずいぶん厳しく激しかったとも聞いたが、私が学生としてお目にかかったとき先生はすでに60代、ただただ優しく、青く硬いばかりの未熟な歌も理解しようとし励ましてくださった。それは私だかりでなく、誰についてもそうで、とにかく肯定されようとしてくださった。
私はその会で、院生だった内藤明さんに会い、小島ゆかりさん、島田修三さんは先輩にあたる。「短歌研究会」に入る少し前に私は「かりん」の会員になっていたが、順序が違っていたらまたいろいろ変わっていたかもしれない。
武川先生はその後、角川短歌賞の選考委員として私を押してくださったが、ふたを開けるまで先生が選考委員であることも知らず、驚いた。
一昨年夏、「音」の全国大会に呼んでいただき、先生にお目にかかった。だいぶお耳が遠くなっていらしたが、全国大会に数年ぶりで出られたという先生を囲んで、会員のみなさんがとても喜び、列をなして挨拶されていたことが記憶に残る。
その春には、武川先生の故郷諏訪に行く機会があった。諏訪の町を歩くと、渋く真面目そうな、武川先生ふうの細面の男性ばかり、と思ったものだ。

武川先生は92歳のご長寿だったが、この機に佐々木実之君のことを書いてしまおう。
3月18日のかりん東京歌会で、岩田先生が、佐々木君が亡くなりました、と言われたのには仰天した。
御母様と自宅で夕食をとっている途中のこと、誤嚥だったという。
ほんの一週間前、岩田先生のお祝いの会に来た。出欠のはがきには「ぜひとも行きます」と添え書きをしてあったのを覚えている。「ずいぶん髪が伸びたねえ」と冷やかしたら、何年か前のごく小さなこと、私がまったく気にもしていなかったことを言い出して誤ったりしたので驚いたが、佐々木君はいろんな人に話しかけて元気がよさそうだった。
佐々木君がかりんに来たのは高校生の時。学芸大付属の紺色の詰め襟姿で、ペンネームの由来を「源実朝」の「さね」、重之の「ゆき」です、と言ってみんなを驚かせた。その時のいたずらっぽい、意気揚々とした感じは今も目に浮かぶようで、いかにも東京の子だなあ、と思ったものだ。
その後、京大に進み「京大短歌」でも活躍。やや長い学生生活の後、東京で就職。近年は、体調を崩していたお父さまの介護のためもあって、実家に戻り、会社勤めのかたわらお母さまをずいぶん助けていたようだ。単純ではない父上との葛藤の年月とその末の父子の思いをうたっていて、繊細で優しい彼の性格が伺われた。
時々、深夜に電話をもらうこともあったが、謎かけのようなことをふっと言い出したりした。最近は電話もなかったので、元気なのだろう、と勝手に安心していた。
葬儀で、坂井が彼の柩をかつぐことになるなど、誰が思っただろう。生前、脳死の場合の臓器移植を希望していたことを妹さんが思い出して、彼の腎臓が50代と10代の二人の方に無事移植され、働きはじめた、と御母様から報告があった。彼の腎臓が誰かの中で生きている、ということは、おもいがけぬ、小さいけれど深い慰めだった。移植した人に会いたい、と思うのは、本当に不思議な気持ちだった。
じっくり自分の歌集を編んで、倍の年月は生きてよかったのだ。佐々木君の歌をもう一度読み返したい。

お二人のご冥福を心からお祈りいたします。

米川千嘉子

« 馬場先生=前川佐美雄賞、 渡辺松男さん=迢空賞 | トップページ | 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 武川先生、そして佐々木君:

« 馬場先生=前川佐美雄賞、 渡辺松男さん=迢空賞 | トップページ | 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 »