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2012年9月 8日 (土)

たかが電気

坂本龍一さんが、7月16日、原発反対集会の会場で、「たかが電気」と発言し、世の中を騒然とさせた。これは何か言わなければ、と思いながら、二ヶ月近くがたってしまった。

坂本さんは、世の中から電気がなくなってもいい、と言ったわけではない。原発みたいな危険な発電手段を破棄して、もっと安全な(家庭にひとつ、というような)分散した発電にしてほしい、ということを述べたのだった。これは、多くの人が思う電気の将来像だろう。

「たかが電気」という言葉には、不穏な響きがあるが、電気といえども人間の命や尊厳より尊いということはない。いっぽうで、電気がなければ、文明のレベルは下がり、快適な生活はできなくなり、人口も減少する。電気があれば救われる人間の命が失われるのである。

(話はこれで終わりかもしれないが、私はもう少しだけ深く考えてみたい)

電気文明が盛んになってから、人口は劇的に増え、寿命は延びた。インターネットができて、情報の流通がぐんとよくなった。だが、個々の人の心の中をのぞきこんだとき、電気文明によって、本当に幸福は増したのだろうか。

生きる快適さという意味では、たしかに幸福度は増したのだろう。いっぽうで、人間が生きることの意味を深く知り、感じるという意味では、必ずしもそうはなっていないのではないか。

坂本龍一さんの「たかが電気」という言葉は、人々の怒りや悲しみの代弁であるとともに、芸術家の思いがこめられているようだ。芸術には進歩史観は成り立たない。電気文明によって芸術が進歩したということはないのである。優れた芸術を生み出すことこそ人類の進歩であるとすれば、、われわれは進歩などしていないといってよいだろう。

文明と芸術の関係。文明が進歩しても、芸術が衰退すれば、人間は真の幸福を手に入れているとは言えない。最後はそういうというところに行き着く話と思う。

(坂井)

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