日記・コラム・つぶやき

2014年4月14日 (月)

「日本を捨てる」から「日本にいられない」へ

32歳の私はMITの研究員をしていて、「日本に帰るべきか帰らざるべきか」と、研究者が一度は出会う悩みに襲われていました。1991年、つまり23年も前のことです。「日本を捨てるべきか」と少しドラマチックに問いかけてみたりしましたが、私が日本を捨てても捨てなくても、それは私の周辺の小さな出来事で、特別のことではなかったはずです。

今の私の教え子たちは、米国はもとより、イギリス、ドイツ、中国、韓国、ブラジル、ベトナム、ミャンマーなど、国を選ばず世界中に住んで仕事しています。公務員、会社員、銀行員。職種も事業規模もさまざまな組織を背負って海外に出て行き、外国で暮らしている、それも5年、10年と長期に。グローバリゼーションという奴なのでしょう。

今の人たちは、自発的に「日本を捨てる」ことももちろんあるのでしょうが、むしろ「日本にいられない」状態になっている気がします。ただちに移民するわけではなく、日本社会に属しながら、労働や生活の中心をアジアや南米の国々に移している、ということです。

ブラジルのサンパウロでは、駐在員が防弾仕様の自動車で通勤していると聞きます。治安の問題ばかりでなく、言葉、食事、子供の教育、娯楽など。苦労の種は尽きないはずです。

もちろん、今さら「小国寡民」に戻ることはできません。

(坂井)

2014年4月11日 (金)

今日は入学式

今日、4月11日は東大の入学式。去年に続いて、日本武道館で、ガウンを着て登壇することになっています。

この日は、新入生君たちのことを思い、同時に自分の来し方をふりかえる日でもあります。

もしもこの場にメフィストフェレスがいて、まだ18歳だったあの日に戻してあげる、と言われても、私は戻りたいとは思いません。また同じ失敗を繰り返して、同じ人生をよろよろと歩むだけ、という気がします。個々の失敗は、今となっては恥ずかしくも愛おしいもの。でも、その時その場にもういちど立つよりは、思い出して悲しむほうがいくらか良いように思います。

今は、私が入学した1977年よりもずっと厳しい時代でしょうが、1937年よりは良いと思います。後者より悪くならないようにすることも、私どもの為すべきことでしょう。

(坂井修一)

2013年8月28日 (水)

痛風

この5月に痛風になった。

血中の尿酸濃度が高くなって体の末端部に溜まり、ついに尿酸ナトリウムの結晶(ムラサキウニ状)ができて激痛が襲う。尿酸は比重が大きいので、結晶化するのは体の下の部分、特に足の親指近辺となる。そういう筋通りのことが起こった。

この2ヶ月前に測定した私の尿酸値は、7mg/l近辺で、決して大きな値ではなかったと思う。ただし、世の中には尿酸濃度の変動が激しい人がいて、私はそのタイプだそうだ。5月中旬頃は、出張や宴会が多く、特に懇親会でのビール、中華料理屋での紹興酒などが重なったので、この値が高くなっていたらしい。

ストレスの影響も大きいそうだ。どういう仕組みでストレスが尿酸の結晶化を促すのかはわからないが、「痛風患者さんは、活動的な性格で、仕事もするがよく遊び、よく食べよく飲むというようにエネルギーの出し入れの多い人に多い傾向があります」(「痛風手帖」)とあるように、食事だけが原因ではない。私の場合、4月に研究科長に就任して、(好むと好まざるとにかかわらず)「活動的」「エネルギーの出し入れの多い」状態になっていたことが、やはり大きいのだろう。

それにしても。あの足指の痛みは、すっかり腫れが引いた今も忘れがたいものがある。あれを思い出すたびに、飲み食いの手は止まり、仕事や原稿書きの手を休めて深呼吸することとなる。米川の作る食事は、もとから野菜中心のものだったが、夕食のメインディッシュまで痛風患者用のものとなり、食卓からビールやレバーやエビが完全に消えた。

以後、痛風の再発はなく、体重も6キロ減った。おかげで、尿酸値だけでなく、コレステロールや中性脂肪など、軒並み下がった。主治医の先生は、「5キロ減ったら(生理的には)別人ですよ」と仰せである。これはちょっと嬉しい。

(坂井)

2012年7月10日 (火)

ドイツ語の手紙

大学1年生の夏休みの宿題で、ドイツ語の手紙をドイツ語の助教授に出す、というのがあった。

時候の挨拶の後、私はヘルマン・ヘッセについて書いてみた。自然と文明の狭間で生きる文人の悲しみ、苦しみ。そういう内容だったかと思う。

はじめて書くドイツ語の手紙。中学以来のヘッセの読書を下敷きに、レクラム文庫を買い、寝るときも文章を推敲しながら、一週間ぐらいかかってこれを書き上げ、投函した。

この手紙は、Wundarbar!という最高の評であった。英語のwonderfulである。嬉しかったが、次にドイツ語で一文が添えられていた。「出典がわからなかった。うまくやったものだ!」。助教授は、私の手紙を、どこかの評論家の文章からの引用と考えたのである。モノノ本にある言葉を、上手に写したものだと。

私は、助教授からすれっからしのノウハウ人間とみなされ、蔑まれたのだった。田舎育ちの18歳は心から悲しみ怒ったが、抗議はしなかった。東大という大学にいる学生は、学問ではなくヨウリョウによって自分の成績を上げる者が多く、教師はそれを見破ったり適当にいなしたりするのがルーチンワークとなっている。そういう現実を思い知ったからだ。

あれから35年たった。私も母校の教授をやっていて、「すれっからし」のレポートを大量に読むこともある。しかし、18歳の自分自身が書いたドイツ語の手紙のようなレポートを、正しく評価する目だけは持っていたいと心から願い、実践している。

坂井

2012年6月22日 (金)

記念日

檀ふみさんのエッセイを読んでいると、「女性はあらゆる記念日を覚えていて、連れ合いを恐怖せしむる」というような記述があった。結婚記念日、婚約記念日、プロポーズ記念日など、結婚に関するものが多いのは当然。誕生日、出産の日などもまあ、自然なところだから覚えておくべきだろう。その上に、初めて接吻した日、海外旅行に行った日が加わり、果てには、いっしょに芝居やコンサートや美術館に行った日、お気に入りの着物を買ってもらった日、などが加わるという。こうなるとオトコは毎日戦々恐々だ。

うちの奥さんは、ありがたいことにこういうことに疎い。まことに疎い。

米川は、銀婚記念の日に手帳に、忘れてはならじと「銀」と書き込んだ。そこまでは良かったが、後日、「銀」が何であるかを完璧に忘れてしまった。銀座に行く日だったかしら。それとも銀行だったかしら。当日、そんなことを言っていた。私は、おもしろいからほっておいた。彼女、これを某誌のエッセイに書いた。そしたら、予想外の反響があった。

オトコの私としては、これで助かるというべきなのだろう。しかし、うまくいかないもので、私のほうはこういう記念日の記憶は実に鮮明である。彼女に交際を申し込んだ日、はじめて料理を作ってもらった日、結婚を申し込んだ日、婚約した日など、場所も天気も、あたりのフンイキもニオイも、すべて覚えている。最初の料理がビーフステーキであって、ニンニクをけっこうたくさん使ったことも、婚約の日に私が飲んだ日本酒のとっくりが青白い磁器で、中身が人肌よりかなり熱かったことも。

私は特に女々しいわけではないが、米川はなかなか豪快でおもしろい。

坂井

2012年4月25日 (水)

炭酸ミスト

米川さんが炭酸ミストの話を書いていました。

このあいだの日曜日に、同じ美容院で散髪してもらいました。私の寝ているスキに、ご主人さんにミストをされ、無事に小生も経験ポイントが一つあがった次第です。

効用については、何も言えません。ふだんから鏡など見ないし、自分の顔の皮膚について興味ない生活を送っています。でも、今にして思えば、数時間は気持ちよさが持続したような気もします。

申し訳ないです。

坂井修一